【ITパスポートの実務】パスワード管理ツールを案内する──「覚えられない」を否定しない
職場の総務担当から、社内向けの案内文づくりの相談が届く。
「総務です。『サービスごとに違うパスワードにしたいけれど、覚えきれない』という相談が増えています。そこで、パスワードをまとめて安全に保管できる『パスワード管理ツール(パスワードマネージャー)』の利用をおすすめすることになりました。サービスごとに違う複雑なパスワードでもツールが保管してくれること、覚えるのはツールを開くマスターパスワード一つでよいこと、そのマスターパスワードは特に強くして他人に教えないこと、付箋やメモ帳ファイルに平文で書き残すのは避けたいこと。この点をふまえた案内文の本文を作ってほしいのです。はじめての人にも分かりやすくしたいです」
ITパスポートの知識がここで力になるのは、「覚えられない」という相談を、否定せずに受け取れたときだ。覚えられないのは当たり前で、努力で解決する話ではない。そこから始めると、道具を使う理由が自然につながる。この記事では、その組み立てを整理する。
まず結論:「覚えられない」は正しい
相談は「サービスごとに違うパスワードにしたいけれど、覚えきれない」である。
ここで「頑張って覚えましょう」と返さない。覚えられないのが当たり前だからだ。数十のサービスそれぞれに、別々の複雑な文字列を覚えるのは、人には無理である。
だから案内文は「覚えられないのは当然です」から始める。相談してきた人の感覚が正しいと認める。
そのうえで「覚えなくてよい方法があります」とつなぐと、道具の話が解決策として入ってくる。「新しく覚えることが増える面倒な話」にならない。
案内文でいちばん難しいのは読んでもらうことである。最初の1行で「これは自分の困りごとの話だ」と思ってもらえるかで決まる。
なぜ「使い回し」がまずいのか
そもそもなぜサービスごとに変える必要があるのかを、先に説明する。ここが分からないと、道具を入れる理由も分からない。
理由は1つである。1か所から漏れると、同じものを使っている他の場所も開けられてしまう。
漏れる原因は自分の不注意とは限らない。使っているサービスの側から漏れることもある。自分がどれだけ気をつけていても、防げない。
ここが大事である。使い回しをやめるのは、自分のミスを防ぐためではなく、他人のミスの影響を自分の範囲に閉じ込めるためだ。
この説明だと読む人が責められた感じにならない。「気をつけていないから危ない」ではなく「気をつけていても起きるから、分けておく」である。
何人も、不正アクセス行為……の用に供する目的で、アクセス制御機能に係る他人の識別符号を取得してはならない。(不正アクセス行為の禁止等に関する法律4条)
何人も、不正アクセス行為の用に供する目的で、不正に取得されたアクセス制御機能に係る他人の識別符号を保管してはならない。(同法6条)
法律は他人の識別符号——ログイン情報——を、不正に取得することも、保管することも禁じている。
案内文に条文を書く必要はないが、「他人に教えない」の根拠にはなる。教えた側にも、受け取った側にも困ることが起きうる。
そして「共有アカウント」の話にもつながる。1つのログイン情報を複数人で使う形は、誰が何をしたか分からなくなるという別の問題も生む。
案内文では「ご自分のものは、ご自分だけが知っている状態にしてください」という一文でよい。
道具に預ける、という考え方
| いまのやり方 | 道具を使うと | |
|---|---|---|
| 覚える数 | サービスの数だけ | 1つ |
| 1つあたりの複雑さ | 覚えられる範囲に収める | 制限がなくなる |
| 入力 | 自分で打つ | 道具が入れてくれる |
説明の要点は「覚える数が減る」だけではない。1つあたりを複雑にできることのほうが効いている。
覚える前提だと、覚えられる範囲の複雑さにしかできない。覚えなくてよくなると、その制限が外れる。
やさしく伝えるなら「覚えなくてよくなるので、覚えられないくらい複雑にできます」という形になる。これが本当の利点である。
そして入力を道具がしてくれることにも、別の効きめがある。本物のページでないと入力されないので、偽のページに気づけることがある。
ただしここは踏み込みすぎない。ツールの動きはものによって違うので、「そういう働きもあります」程度にする。
1つに集めることへの不安に答える
案内すると、必ず「1つにまとめて、そこが破られたら全部だめでは」という声が出る。もっともな疑問であるので、先に答えておく。
答えは「だから、その1つだけを特別に強くします」である。
数十を全部強くするのは無理だが、1つなら強くできる。力を1点に集めるという考え方だ。
そしてその1つは、他のどこにも使わない。使い回すと、集めた意味がなくなる。
さらにその1つにも、もう1段の確認を足せることが多い。知っているものだけに頼らない形にできる。
不安を否定しない。「その不安は正しくて、だからこうします」という形で答える。否定すると、そこで読むのをやめられる。
いちばん抜けやすいのは「開けなくなったとき」
案内文でいちばん書き忘れられるのが、ここである。
1つに集めたということは、その1つが開けなくなると、全部にたどり着けなくなる。
だから開けなくなったときの手段を、導入と同時に用意する。
- 回復用の情報があるツールなら、それをツールの外に安全に保管する
- 端末を変えるときの手順を確認しておく
- 社内で相談できる先を決めておく
「ツールの中に、ツールを開くための情報を入れる」形にしない。開けないときに取り出せない。
この点を書いておかないと、実際に開けなくなった人が出たときに、案内した側が困る。導入をすすめる文書には、うまくいかなかったときの道も書く。
「付箋やメモ帳」を、頭ごなしに否定しない
依頼者は「付箋やメモ帳ファイルに平文で書き残すのは避けたい」とおっしゃっている。そのとおりだが、書き方に気をつけたい。
付箋に書いている人は覚えられないから書いている。それを禁じるだけでは、困りごとが残る。
だから「代わりがあります」とセットで書く。道具が、付箋の代わりになる。
そしてなぜまずいかも一言添える。「見える場所にある」「持ち出せる」「消したつもりでも残る」——理由が分かると、自分で判断できる。
「やめてください」ではなく「こちらのほうが楽です」という形にすると、実際に移行してもらえる。楽になるから移るのであって、叱られたから移るのではない。
案内文の例
パスワード管理ツールのご案内
「サービスごとに違うパスワードにしたいけれど、覚えきれない」——このご相談が増えています。
覚えきれないのは当然です。数十のサービスそれぞれに、別々の複雑な文字列を覚えるのは、どなたにも無理があります。
そこで、覚えなくてよくなる方法をご案内します。
なぜ、サービスごとに変えるのか
1か所から漏れたとき、同じものを使っている他の場所も開けられてしまうためです。
漏れる原因は、ご自分の不注意とは限りません。利用しているサービスの側から漏れることもあります。どれだけ気をつけていても防げませんので、あらかじめ分けておくという考え方です。
パスワード管理ツールとは
ログイン情報をまとめて保管しておく道具です。覚えるのは、この道具を開くための1つだけになります。
いちばんの利点は、覚える数が減ることよりも、1つあたりを複雑にできることです。覚えなくてよくなるので、覚えられないくらい複雑な文字列が使えるようになります。
「1つにまとめて大丈夫?」というご質問について
もっともなご疑問です。だからこそ、その1つだけを特別に強くします。
数十を全部強くするのは無理でも、1つなら強くできます。そしてその1つは、他のどこにも使わないでください。使い回すと、まとめた意味がなくなります。
開けなくなったときのために
1つにまとめるということは、その1つが開けなくなると全部にたどり着けなくなるということでもあります。
ですのではじめる時点で、回復用の情報をツールの外に安全に保管しておいてください。ツールの中に入れると、開けないときに取り出せません。
端末を変えるときの手順も、あわせてご確認ください。分からなくなったら◯◯までご相談ください。
付箋やメモについて
付箋やファイルに書いていらっしゃる方も多いと思います。覚えられないから書いているのですから、自然なことです。
ただ、見える場所にある・持ち出せる・消したつもりでも残るという弱さがあります。この道具が、その代わりになります。
やめてください、というお願いではありません。こちらのほうが楽になりますので、ぜひお試しください。
はじめ方
◯◯までお声がけください。設定をご一緒にいたします。1つずつ移していけますので、一度に全部でなくて結構です。
相談の言葉をそのまま冒頭に置いた。読む人が「自分の話だ」と思える。
そして「覚えきれないのは当然です」で受けている。否定から始まっていない。
「1つにまとめて大丈夫?」を先回りして答えている。疑問を持たれる前に置くと、読み進めてもらえる。
開けなくなったときのことを、導入の説明と同じ重さで書いた。都合の悪いことを隠さない。
最後が「一度に全部でなくて結構です」である。始める負担を下げると、実際に始めてもらえる。
作り方の手順
- 相談の言葉から始める。「自分の話だ」と思ってもらう。
- 困りごとを否定しない。覚えられないのは当然。
- なぜ分ける必要があるかを先に書く。道具の話はその後。
- 他人のミスの影響を閉じ込めるためと説明する。責めない形になる。
- 本当の利点を書く。数が減ることより、複雑にできること。
- 不安に先回りして答える。「1つにまとめて大丈夫?」
- 開けなくなったときの手段を、導入と同時に。
- いまのやり方を頭ごなしに否定しない。代わりとセットで。
- 始める負担を下げる。一度に全部でなくてよい。
- 相談先を書く。設定を一緒にやる。
この場面で効いているITパスポートの知識
- パスワードの使い回し——1か所の漏えいが他に及ぶ
- 識別符号の取得・保管の禁止(不正アクセス禁止法4条・6条)——他人に教えない根拠
- 共有アカウントの問題——誰が何をしたか分からなくなる
- 回復手段の確保——1点に集めることの裏側
知識そのものより、困りごとを否定せずに受け取って、代わりを渡せることが、この場面で効いている。
案内で外したくないポイント
- 「覚えられない」を否定しない。努力で解決する話ではない。
- なぜ分けるかを先に書く。道具の話はその後。
- 他人のミスの影響を閉じ込めるため。読む人を責めない説明になる。
- 本当の利点は「複雑にできること」。数が減ることではない。
- 「1つにまとめて大丈夫?」に先回りする。不安を否定しない。
- その1つは他のどこにも使わない。使い回すと意味がなくなる。
- 開けなくなったときの手段を導入と同時に用意する。
- ツールの中に、ツールを開く情報を入れない。
- 付箋を頭ごなしに否定しない。代わりとセットで。
- 「やめてください」ではなく「こちらのほうが楽です」。始める負担を下げる。
根拠条文のまとめ
| 条文 | 見出し | この記事で使った内容 |
|---|---|---|
| 不正アクセス行為の禁止等に関する法律4条 | 他人の識別符号を不正に取得する行為の禁止 | 他人のログイン情報の取得の禁止 |
| 同法6条 | 他人の識別符号を不正に保管する行為の禁止 | 不正に取得された識別符号の保管の禁止 |